2019年09月10日
【第5回横須賀市・三浦地区医療介護連携の会でおもう自己決定権】
【第5回横須賀市・三浦地区医療介護連携の会でおもう自己決定権】
昨晩の中島先生(中島内科クリニック)が開催する医療介護連携の取組みのテーマ、今回はACP(Advance Care Planning)ということで、人生の最終段階における意思決定支援について聴講し、様々なことを考えてきました。
ACP(Advance Care Planning)は、患者の価値観を尊重し、個々の治療の選択だけでなく、全体的な目標を明確にさせることを目標にしたケアの取組み全体を指します。将来もし自分に意思決定能力がなくなっても、自分の意志が尊重される。医療スタッフや家族が、自分にとって最善の医療を選択してくれると患者が思えるケアを提供する取り組みです。
ACPについては、厚生労働省が2018年にガイドラインを出しています。
https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000197665.html
■どこまでの自己決定が求められるのか
(ここからは加藤の頭の中で考えていたことです)
(会の内容からは外れます)
先日の自治体学会で聴講した墓地行政の話にも関連しますが、http://katoyusuke.net/2019/08/24/190824/
「我々は、どこまでの自己決定の自由を求められているのか」
というテーマが想起されます。
憲法第13条は幸福追求権を定めています。
一般的な憲法学説として、憲法が、一つ一つの自由を直接保護しているのだという憲法学説は少数です。
例えば、たばこをする権利がある、飛行機に乗る権利がある、山登りをする権利がある、という個別の行為が、「自由一般に対する自己決定について憲法上一定の保護を受ける」(これを一般的自由説といいます)と考える学説は、少数だということです。
なぜかというと、自己決定の内容を際限なく広げていくと、却って人権が軽くなるからです。権利にふさわしい重みをもった自己決定と、自由一般の自己決定の区別がなくなるという強い批判があります。
このため、人格的利益説(=人格的生存に不可欠な利益)、すなわち、人間の尊厳および個人の自律に密接に関連する権利のみが、憲法上の人権として認められるとする学説が、優位です。
しかしながら、たとえば、重篤な病気で命の危機に瀕する患者に、特定の治療方法拒否に関する思想信条が見られた際、それを拒否する自己決定は自由だ、(そうです法学部ならだれでもやるあの輸血の判例です)、ひいては尊厳死など、死に至るまでの生き方すべてが自ら決定できるものだ、という点まで踏み込んでいくと、これはとても重いテーマであり、どこで線引きするのか、とても悩ましいことに気づきます。
「ああ、うちの母、『私は病院嫌いだからね』とテレビ見ながらよく言ってたもんな」という、なにげない会話だけで、本人の意思確認ができない中で命に関わる治療をしない選択を周囲の家族が判断することはないと思いますが、
「本人は延命治療をしないって書面で意思表示をしているけれど、それは私たちが望んだことじゃない」と、本人の意思確認ができない状況になってから、家族の意志との齟齬がわかっても、これもかなり難しい。
その意思決定を、医療に関するどういう情報が与えられた状態で本人が下したのか
もっと情報があれば、違った意思決定をしたのではないか
などなど、視点が様々あることに気づくのです。
…ということで、大変学びになりました。